ここではどうしても否定的な声の方が大勢になってしまいますが、全体的にはどうなんでしょうね。
7.0は挑戦だったというのは理解しますが、それでも7.0は、8.0までには新生してほしいかも。
全面的な作り直しはもちろん無理ですけど、要所要所、辻褄が合わない部分などの手直しは検討してほしい。
もし作り直されたら、わたしはもう一回7.0をやり直して、脳内を上書きしたい。
ゾラージャが一番もったいなかったですが、ゾラージャ討滅戦がわたしの中で盛り上がらなかった原因は明確です。
例えば、蒼天から暁月に至るまで、メインクエストの主要キャラを討滅するときは、
ゲーム内でしっかりとそのキャラに対して意識が向くように仕向けられていました。
討滅戦の時点でそのキャラへの理解度が上がっていて、後は決着を付けるだけという感じでした。
一方でゾラージャは、直接的なぶつかり合いもないまま消えたので、前半終了時点では、モブキャラが消えたのと同じ感覚でした。
そしてヨカトラル襲撃は、モブキャラがおかしな敵になって戻ってきた、という程度の感覚でした。
ヘリテージファウンドに入ってからも、鏡像世界と融合した街の問題や、スフェーンなどに意識がずっと行っていたので、
ゾラージャに関して話題が出ても、ひどい言い方をすると「モブキャラのサブストーリー」という感じでした。
ゾラージャが行動を起こして二度目の襲撃が発生。結局、そこでもウクラマトとゾラージャの家族としての正直なぶつかり合いもなく、
むしろすぐに「スフェーンが実はxxxだった」という方に意識を向けさせられます。再びゾラージャは意識の外へ。。
結局、ゾラージャ討滅戦を迎えた時点では(リアルタイム進行時は)「モブキャラ討滅戦」という感覚だったんだと思います。
過去の討滅戦に照らし合わせたとき、この感覚は「メインキャラ討滅戦」というより「蛮神討滅戦」、
例えば「真ビスマルク討滅戦」や「ラクシュミ討滅戦」くらいの感覚だったように思います。
7.1のゾラージャの描写は良かったと思いますが、実際のところ、あれは掘り下げや補完などではないと受け取っています。
7.1のストーリーとして、元々必要だった描写だと思います。
もうひとつ、ゾラージャ討滅戦が盛り上がらなかった理由があるのですが、
それは、ヨカトラルの人々、トラル大陸の人々に対して、冒険者として『守らなきゃ!』と思えるような感覚になれなかったということです。
彼らは楽しいキャラですが、例えば紅蓮で圧政に苦しむ民たち、暁月で突然の終末に見舞われ逃げ惑うサベネア島の人たち、
彼らには、しぶとくもそこで「生活している人たち」という感覚がありました。「人間」を感じていました。
でも、トラル大陸の人々にはその感覚を殆ど持てませんでした。民族性や多文化には触れましたが「生ける人」という感じではありませんでした。
単に「トラル大陸を彩るモブキャラたち」という感覚だったんだと思います。「人」というより「デ〇〇ニーのキャラクター」みたいな感覚です。
だから、「トラル大陸の人々を護るためにもゾラージャを討つ!」みたいな感覚にならなかったのだと思います。
わたしが冒険者としてヘリテージファウンドに向かった理由は、トラル大陸の人々のためではなく、唯一、エレンヴィルのためだけでしたから。
(むしろヘリテージファウンドやソリューションナインの方が、そこで生きている人たち、という感覚は持てていました)
追記)トラル大陸では前半、短時間であっちこっち行かなければならず、それぞれの場所が薄味になってしまったのかも。
例えばペルペル族は「金の試練」のために奔走し、アルパカを捕まえ、、、その記憶が中心でした。
ペルペル族の紹介、特産品の紹介、観光としては良いのかもしれませんが、、、
「観光で訪れただけ」の村の人を「護ろう!」とは中々ならないですよね?そんな感じです。
アラミゴやドマ、サベネア島、ガレマルドなどの人たちは、先に問題があり、冒険者としても最初から「寄り添い」、
特に「名前のある特定の人への寄り添い」がありました。
今回は本当に観光旅行であちこち前半をめぐっているようなものなので、
基本的に平和ですし、広く、薄く、色々な人と次から次へと会っていきますし、寄り添う気持ちも不要でした。
単に保護者として同行しているだけでしたし。その結果として、「護る」という感覚に対してのズレが生まれたのだと思います。