タイトルの通りでございます。
しかし本題に入る前に、まず軽く前置きをさせてください。
私は新生FF14をCβテストから遊ばせて頂いております。
旧版からプレイしている方程ではありませんし、休止も幾度か挟んでおりますが、それでもなかなかに長いことこのゲームを遊んでいます。
この様に積極的に意見・感想を述べる様な事も初めていたしますが、私はゲームそのものとしてのFF14は元より、エオルゼア、ひいてはハイデリンの世界、そしてそこに息づくキャラクター達や彼らの物語を愛してやみません。
今となってはそれをもっと積極的に発言していれば良かった、と後悔している程です。
この度の意見文は、どうしても開発をされている方の目に触れてほしくて、様々な方法を考慮した結果、フォーラムへの投稿という形を取らせていただきました。
拙い文章で大変恐縮ですが、最後までお読みいただけますと幸いです。
以下からが本題となります。
私はメインストーリーも大好きで、そのうち設定を調べたりして(当たる当たらないは別として)シナリオの今後やもっといろんな隠し設定を考察する、なんていう遊び方もするようになり、毎度のアップデートの今後の展開に思いを馳せながらストーリーの更新を楽しみにしていました。
現在進行系ではなく、過去形で書く主な原因は大きくは二つとなります。
一点目は、主人公である光の戦士を始めとした、現代を生きるヒトの視点から大きく乖離したまま進むストーリー、二点目は、その中心となっている、暁月のシナリオにおいてなんの前触れもなく突然登場したカイロスというギミックです。
さて、大きく二つとは言いましたが、これだけだと説明が乱暴すぎるので、「今のままではストーリーを楽しめない」と考えるに至った理由を順繰りに解説させて頂ければと存じます。
まず、一つ目の視点の偏りの問題ですが、例に上げやすいのが古代人達の取り扱い方でしょうか。例えば、エルピスに於いて一番最初に直接関わる事になる、過去のヒュトロダエウスとエメトセルクです。
彼らは古代人で、現代での主人公の立ち位置から照らし合わせれば本来「敵」であるはずですが、エルピスでは主人公(の魂)に見覚えがあったので、彼らは親近感を覚えて味方をしてくれます。
現代の視点で考えると、自分たちと同じニンゲンですらない見知らぬ誰かの気配が友人によく似ていたからといって、無条件に信用する事はあまりなさそうなのに、何故か?
彼らは彼らの最盛の時代では絶対の揺るがない存在であり、本来自分以下の存在に警戒する必要がないからでしょう。これは古代人全体の特性と言えるとも思います。
しかし、この何故すらも説明されてはおらず、ごく表面的に見ればエメトセルクとヒュトロダエウスは「ただの良い人」扱いされかねません。そして実際、そういうふうに思うプレイヤーばかりではないはずなのに、何故か主人公も全く警戒していないかの様に彼らを全面的に信用している風で描かれます。
これが偏りです。
こう言った「説明不足」、「描写不足」の要素が暁月では大量にあるのです。
当然レーティングなどの描写の都合もあるとは思いますが、アゼムの使い魔という強力な(本来であれば良く考えなくともかなり屈辱的な)免罪符とエルピスという場所が視覚的にも非常に美しいことと合わさって、情報統制されているかのように彼らの美しい面しか見えてきませんし、疑問を投げかけるようなサブイベントもありません。そしてストーリー内では否定的な選択肢や沈黙を選ぶ事も出来ません。
人間は比較する事によって物事を判断します。しかし古代人の周囲は「命」に対する扱いが緩すぎるのにも関わらず、それが全く牙を剝いてこないし、現代と比較する機会も設けられていないため彼らの影の面が全く見えないのです。
そしてこれは古代関連に限った事でもないのですが、吉田さんは新生の時分から良くFF14をダークファンタジー路線であると言っていますが、殊更に暁月は「絶望」というテーマを取り扱っている割には、肝心のストーリー内では一貫して主人公を取り巻く環境がポジティブに偏りすぎている様に見えます。絶望イベントが基本的に主人公グループの外野の出来事で、主人公側には基本的に味方のバックアップや逃げ道、終いには「とても便利な不思議な力」までが味方にあるので、プレイヤーは絶望という無力感を身近に味わうチャンスがほとんどないのです。比べるようで恐縮ですが、既存のシナリオに言及するなら、自分一人ではどうする事もできない状況に放り込まれ、味方がが一人また一人脱落していった「戦勝祝賀会」や、暁月シナリオの序盤にあった、自身の肉体を失ってしまう「寒夜のこと」のイベントの方が圧倒的にパンチがありました。そう、おかしな事に、問題は全く解決していないどころか深刻になっていってるのに、絶望のプレッシャーは物語が進むごとに右肩下がりに軽くなっていっているのです。
これが物語全体の「締りのなさ」も生み出してしまっています。
その上、キャラクタークリエイト出来る、主人公に個性を持たせられる事を強みにしているゲームであるのに、新生から紅蓮までの間はかなりの割合でプレイヤーに委ねられていた「問題に対する自分のスタンス」や「どの感情を抱くか」という点が、漆黒以降は非常に制限された枠内に押し込められているように見えます。
一側面しか見えなくしているのはこれも大きな原因の一つになっているのではないでしょうか。
暁月以降は、自分に合った選択肢が無ければ選択する事ができた、何も言わないという「沈黙」の選択肢が完全に消え去った事もあり特に目に余ります。
おまけに、主人公の人格形成や設定付けをプレイヤーに任せるならフレーバー程度で十分なはずの、主人公の「前世」に付随する具体的な設定もあわよくば勝手に押し付けようとしてくるのです。
性格や外見が固定された主人公ならわかりますが、自分で好みに作っていいと言われているキャラクターにそれをするのは約束が違います。
新生や蒼天の頃から光の戦士の具体的なキャラ付けはしないという方針だったと記憶していますし、比較的最近である漆黒5.4前のGameWatch上のインタビューでも、吉田さんは実際に「これ以上(アゼムの具体的な人物像には)踏み込まないつもり」だと発言しているのに、その直後の暁月ではこういった事が起きているのです。
LGBTQの課題が近頃よく話に上がり、ゲーム内でもジェンダーフリーの衣装が増えていますが、性的自認や嗜好のそれすら以前に万人の感じ方には個性があります。強い言い方になってしまいますが、キャラクターの外見や性格付けがプレイヤーに委ねるのがお約束であったはずのゲームの受け取り方の固定化をするのは、遊び方の強制とすら言えるのではないでしょうか?
これは開発のスタンスとしても明らかに矛盾していますので、今一度開発内(特にシナリオ班内)での意識の統一化を図るべきです。
続く↓