さて、ここで重要なのは『願いの力』です。仏教では阿頼耶識などと言うようですが、ようするに知性体が抱く何かに対する共通イメージです。信仰だったりそういうのです。
 教皇は「千年に渡るイシュガルドの民草の『ナイツ・オブ・ラウンド』という戦士の幻想」を核にして、それを自らに降ろし(教皇に超える力があるのか微妙なところですがアシエンを認識できているのでおそらく持っているのでしょう。確かアシエンって超える力ないと認識できなかった気がするので。)、ナイツ・オブ・ラウンドとなりました。
 しかし、その千年の祈りと、そこらのクリスタルをはるかに超える魔力量=エーテル量を持つ、ニーズヘッグの龍の眼を以ってすら、光の戦士と呼ばれるプレイヤーには勝てませんでした。

 ……そうです、「光の戦士と呼ばれるプレイヤー」。ここが問題になってくるのです。
 過去にも光の戦士と呼ばれる者たちがいたのは、様々なところで言及されます。救世の英雄への期待は、第七霊災で大きな傷を受けた民草にとっては途轍もなく大きな物でしょう。
 そこに、さながらその『光の戦士』のような活躍をしてのけるプレイヤーが現れたのです。そりゃもう、期待するなってほうがムリですよね? お使いもクソほど頼んできます許さんぞモーグリ共。
 そう、プレイヤーは既に一種の蛮神となりつつあるのです。「光の戦士」という蛮神に。
 それに気づいてしまった教皇の心中は如何許だったのでしょう。なにせ、自らも相手を「光の戦士」と呼んでしまっていたのですから。
 これにより、白アシエンの「光の戦士は神に近づきすぎた」という発言が意味を帯びるわけです。
 どうでしょう?それなりに筋は通ったと思うのですが。
 設定に関しては若干うろ覚えの部分もありますので、そのへんはご容赦ください。奥ゆかしさ。